HOME > 小夜衣久八

「小夜衣・久八」

a久八.png

あらすじ

質店伊勢屋の息子千太郎(せんたろう)は馴染みの遊女小夜衣(さよぎぬ)を身受けするために三次(さんじ)が質入れした白露の短刀を持ち出して五十両をつくり、ヤブ医者「村井長庵(むらいちょうあん)」に渡す。実は長庵は小夜衣の叔父で彼女が吉原に売られるように仕向けた張本人である悪党。長庵は三次を伊勢屋にやり白露の短刀をいますぐ請け出すように強請る。

上:小夜衣
千太郎は心中しようと小夜衣と共に廓を抜け出し、死に処と考えている小梅の菩提所に向かっている。しかし、持病を持つ千太郎の足はなかなか先へ進まない。身の上を悔いながら途方に暮れる二人。そこへ追ってきた三次に見つかってしまう。二人は見逃してくれるように懇願するが、長庵と関わりのある三次も小夜衣に廓から逃げられたら大損してしまうのでそれを許さない。結局、千太郎の抵抗もむなしく小夜衣は三次に連れ戻されてしまう-。

下:久八意見
主人を大切に思う久八(きゅうはち)は、千太郎の罪(廓遊びに没頭したこと、遊女を連れ出し逃がした事)を引き受けて伊勢屋の番頭を辞職していた。職を失い途方に暮れた宵の土手、千太郎の姿を発見した久八は静かに跡をつけていた。暗闇のなか何かに躓く。初めは酔った人が寝ているのだろうと思ったが、そこには倒れた主人千太郎の姿。面目ないと逃げ出そうとする千太郎に忠言する久八。それを聞いて若気の誤りを自決によって謝罪しようとする千太郎。しかし、腰から抜いた短刀を防ごうとした久八が誤って千太郎を刺してしまう。暗闇のなか千太郎を殺害してしまったことに気が付き、わなわなと震える久八。そこへ先ほどの三次が戻ってきて「人殺し」と叫ぶ。忠義一途な番頭久八の悲しい物語である-。

この作品は「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきのからくり)」という歌舞伎芝居を常磐津に移植した世話物である。上の巻は若い二人の逃避行、下の巻は主従の因縁をまるで芝居を見るかのごとく表現した作品となっている。

詞章


<久八>
又一吹の少夜風に 雨雲運ぶ秋の空 変る習(ならひ)の男気も 変わらぬ忠義久八が ただ一筋に歩み来て

久「宵に土手で若旦那を 見懸けたゆゑに跡を付け 仲の町①まで行て見れば 女郎②が茶屋に待って居て 現(うつつ)他愛も無い有様③ 直(すぐ)に踏ん込み御意見④せうとは思うたが ァァ否々 満座⑤の中で 若いお方に恥を掻かすも本意ならねば 帰りを待って此土手を 宵から幾度往たり来たり ァァたださへ長い秋の夜に 待たるる身より待つ身の譬(たとへ)⑥ ャ今打つたのはありや八時か知らぬ

小川に懸かる橋の名の 神ならぬ身にそれぞとも 知らで躓く縁の端

久「是は是は 何れのお方でござりまする 真平御免下さりませ ハテナ此の往来(おうらい)に今時分寝て居らるるは ハハア生酔⑦か ャ息遣ひの塩梅はどうやら病に苦しむ様子 モシどうぞ為されましたか

雲間を出づる月のかげ

久「ヤア若旦那でござりますか
千「コレ小夜衣は遣らぬ 遣らぬ遣らぬ
久「モシ気をしッかりとお持ち為されませ 「ャ 然う言ふ声は 「はい番頭の久八でござります
千「エェ お、其方は久八アァ面目無い

面目無やと逃げ出すを 引戻してつれづれと 涙持つ眼に顔打見遣り

久「モシ若旦那 此久八の顔を見て 逃げるやうなお身持には 何でお成りなされました 「ェェ 「若旦那 ェェお前様はなァ 今更言ふには及ばねど お前様は私が お世話申して御養子に お出でなされし御身ゆゑ 一方ならずと思へばこそ 五十両の短刀も此身に罪を引受けて 十二の歳から勤めたるお家を不首尾に出ましたも 貴方に悪いお名を附けまい為 アレ見よ 伊勢五の内の番頭は 見掛に寄らぬ不埒者 紙屑買うて

歩くのは心がらぢゃと人様に 芥(あくた)のやうに言はるるとも

久「お前様さへ御辛抱にて 御家督相続なさるれば 尽くせし忠義も顕れて 又元々の主従になられませうと其のみを 朝夕願ふ効(かひ)も無く コレ此様なお身持ちでは あの物堅いお家ゆゑ 明日とも知れず御離縁に お成りなさるは知れた事 然うなる時は富澤町の御両親様へ私が 何と言ひ訳がなりませう 何ぼお若いお心でもよもや再び曲輪へは お出なされぬ事とのみ 思ひましたは田舎堅気 正直過ぎたが今での後悔 好うも欺して下さりましたな
千「サササ その恨みは道理(もっとも)ぢゃが 更々欺すの偽るのとそんな心は微塵も無い 色に迷いし若気の誤り 久八其方へ言ひ訳 此の場に於て

差したる一腰抜くより早く既に斯よと見えければ

久「ェェ滅相な事なされますな お前様に命を捨てさせ 此の久八が悦びませうか
千「エェ 「サ真のお人にしたいばッかり 夜の目も寝ずにまごまごと 蚊にせせられて此の土手を 幾度歩くか知れませぬ 今お前様に死なれたら 是まで尽した忠義も水 短気な事して下さりますな
千「いやいや 私(わし)は其方に遇はずとも今宵は死ぬる覚悟の身の上
久「そりゃまァ如何なるわけあって
千「サァ 是まで隠して使うたる 金の畳まり二つには 如何なる前世の悪縁か 思切られぬあの小夜衣 所詮此の世で添はれねば 心中せうと覚悟を極め

是此様に書置まで 互に持って曲輪⑧を脱け 此処まで首尾よく逃げ延びしが

千「思ひ懸なく 手柄(てづか)の三次に見咎められて小夜衣を 引戻されるを遣るまいと 争うはずみに傍腹(ひはら)⑨を打たれ 気を失うて後知らねど 翌日は此身の大事となれば せめて其方へ言訳に 此処で死ぬのがまだしも仕合せ どうぞ止めずと死なしてたも
久「知らぬ前(さき)は是非も無いが 此の久八の目に懸り 何で貴方が殺されませう
千「それぢゃと言うて生きては居られぬ 此の手を放して くくっ くりャいの
久「いえいえ 滅多に放しは致しませぬ

止めるはずみに久八が 持つたる刃過って 

千「ムゥ アァ 
久「モシ若旦那 どうぞなされましたか 
千「否々(いやいや)案じやんな どうも為(し)はせぬ どうも為はせぬ
久「ャ五音(ごいん)⑩の調子呼吸の狂ひ 是や過って若旦那をヤヤヤヤヤヤ

呆れて膝はわなわなと 目も紅の草紅葉 

久「モシ若旦那 お気を確にお持ちなされませ 貴方にお怪我を為せまいと 止めるはずみに過(あやまっ)て ひょんな事を致しました アァ こりやどうしたら可(よ)からうな

苦む手負を介抱なし

千「アァ いやいや 其方の知つた事では無い 元より死ぬる覚悟と言ひ 我と我手に突いた疵(きず)
久「否々 貴方ぢゃござりませぬ 此の久八が止める拍子に突いたのでござりまする
千「まだ まだそんな事を言ふか 先非(せんぴ)⑪を悔いて自殺する 身の言訳を親達へ 

言ふ息さへも絶々に 彼の世を照らす常燈(じょうとう)の 燈(あかり)も消ゆる夜半(よは)⑫の露 儚く息は絶にけり

久「モシ若旦那 千太郎様いノウ こりゃもう事は切れたか ウゥゥゥ

野末に弱る秋の蟲 哀(あはれ)を告る道哲の 鉦鼓(しょうご)⑬の声も澄(すみ)渡る 南無阿弥陀南無阿弥陀南無阿弥陀

久「アァ忠義一途に凝(こり)固り 怪我とはいへどお主を殺し 今は不忠となったる此久八 是よりお上へ訴出(うったえい)で 三尺高く木の空で 主殺しの御成敗 受けて死ぬのが罪滅ぼし モシ若旦那 遅かれ早かれ私も 後より冥途へ参りまして 此の身のお詫を致しまする 有るが無いかは知らねども三途とやらの川端で お待ちなされて下さりませ

今は詮方(せんかた)⑭亡骸へ手向の水も宵の雨 樹々の雫も袖濡れて 唱ふる六字の無常音

久「モシ若旦那どうぞ成仏為されて下さりませ 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 

木陰に窺ふ以前の三次 

三「久八の人殺しめ 「エェ 

遣らじと三次が組み付く折から 更けて田町の騒ぎ唄 待つ宵は三味線引いてしんき節 泣いて分れてきぬぎぬの 袖や袂と恨み詫び 逢う時ばかり引き寄せて よんやさよんやさ 罪科重き久八が 心の鬼に責められて 今に地獄の苦しみと門注所(もんじゅしょ)⑮指して急ぎ行く

解説


<久八>
①江戸吉原の仲の町。

②遊女。遊郭で遊客と枕をともにした女。

③夢心地でデレデレとだらしのないさま。

④忠告。現在のお説教に誓い。

⑤満座=その場にいる人全部。大衆の面前。

⑥「待たるる身より待つ身になるな」という江戸時代の諺。双面にも登場。

⑦酒に少し酔うこと。また転じて相当に酔っていること。酔っぱらい。

⑧曲輪=廓(くるわ)

⑨脇腹の事。

⑩日本の伝統的音楽理論用語。五声。1オクターブの中に設定される五つの音階音すなわち「宮(きゅう)・商・角・徴(ち)・羽(う)」をいう。元来は中国から伝えられた用語が日本化したもの。

⑪先非=過去の過ち。

⑫夜半=夜中

⑬雅楽器の一つ。仏教で念仏をする時に叩く青銅製の丸いかね。鉦(かね)。

⑭詮方なき(仕方がない)と亡骸(なきがら)をかけたもの。

⑮日本の鎌倉幕府・室町幕府に設置された訴訟事務を所管する機関。