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「大森彦七」

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あらすじ

北朝方につき『太平記』に怪異話の主人公としても登場する大森彦七(おおもりひこしち)は、伊予の国に向かうため夜道を急いでいたところ先日の大雨で氾濫した河を渡ろうとしている女を見つけたので、危なく思い背負って渡る事にする。

すると天上の北斗七星が煌めき女は本性を現すと刀を振り回し大森に襲い掛かる。彼女は大森が切腹させた楠正成(くすのきまさしげ)の娘「千早姫(ちはやひめ)」であり湊川(みなとがわ)の合戦で討ち死にした父の復讐に待っていたというのだ。大森は何やら誤解があるようなので千早姫に戦の詳細を語って聞かせ始める。

父親の最期を聞いて涙を流す千早姫に、大森は正成から預かった楠家に伝わる「菊水の宝剣」を渡してやるのだった-。

明治維新後、文明開化の世となると西洋演劇の情報も入るようになり歌舞伎本来の荒唐無稽な筋立ては厭われ、明治5年には歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにすることなどを申し渡された。

歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして提唱された「演劇改良運動」の一環として九代目市川團十郎は「新歌舞伎十八番」を制定し、本作品を含め「戻橋」「紅葉狩」など「活歴物(正確な 時代考証を目指した史劇)」を多く上演した。

詞章


頃は北朝 建武三年①春の暮 ここに伊代の国の住人 大森彦七盛長は 御堂の庭に急がんと② 未だ夜深きに立ち出て 辿る山路に路芝(みちしば)の 寂しさ託(かこ)つ賎女(しづのめ)を いたわり連立つ夜の道 弥生の末の若葉だち 残んの花の白雪も 朧に見ゆる小夜中に 雲の脚さへ叢(むら)立ちて③ こだまに響く水の音 身も軽々と賎女④が 石を伝うて川中に 立てば危うき瀬まくらに 押し流されん風情なり

大「昨日の雨の水増せしか 小川なれども此の水勢 女性の身にて 徒歩(かち)渡とは及ばぬ事 某背負ふて参らせん
千「夫(それ)では恐入りまするが 仰(おおせ)に甘へお背中に
大「ササ遠慮なくお掛かりあれ

少女(おとめ)を背負い大森が 漲り落つる谷川の 流を渡る折こそあれ さっと吹き来る夜嵐の 空に煌く北斗の光⑤ 不思議や乙女の相合(さうがう)は 忽ち変る悪鬼の姿 鉄杖⑥ならで氷の刃 盛長目懸け切りかかる 女ながらも稀代(きだい)⑦の早業(はやわざ) 彼方へ離れ此方へ跳び 陽炎(かげらふ)⑧稲妻(いなづま)⑧蝶千鳥⑧ 下弦の月影⑨水の面 岩に砕けてちらちらちら さすがの盛長驚きしが 元より聞ゆる無双の勇士 難なく乙女を取って押さへ

大「女性(にょしょう)の身にて盛長を 騙し討たんとは何者なるぞ 照る月影に顔打ち眺め 御身の目元鼻筋まで正成殿に生写し 疑いもない楠家の御息女
千「いかにも妾(わらは)は楠河内守(くすのきかはちのかみ)が娘の千早 何故有って湊川の合戦に 父上に詰腹切らせ 菊水の宝剣を奪取っては立退きしぞ 其恨を晴らさんと待ちまうけたる今宵の出会
大「ハハ天晴(あっぱれ)の御心底 さりながら御身の恨を解かんため 其日の軍の荒増しを盛長語り申すでござろう

其にて御聞きあれかしと 盛長は座を構へ さても建武二年の皐月 正成殿には一族引連れ 朝日に輝く菊水の旗ひるがえし 堂々どっと湊川へと討って出で 海陸二手の足利勢を 引き受け引き受け 攻め破り 風に木の葉を散らすが如く 敵を悩まし戦いしが 一ト村ある家に馳せ入って 息を休めて在したり

大「某斯くと見るよりもイザ

一戦と押寄すれば 御着長(おんきせなが)⑩を脱がせられ すでに最期のお仕度ありしが 来たれやおふと立上がり 再び物具(もののぐ)⑩召さんず有様 こは勿体無やと押止め ご最期お勧め奉れば 御心静かに称念(しょうねん)⑪唱へ 正季(まさすへ)殿と刺違え 御痛はしくも御兄弟 同じ枕に伏給う 父が最期の物語聞くに涙も瀧津瀬(たきつせ)や 咽ぶ小川の水増して 胸も漂う切なさに 姫は御声曇らせて

千「其御物語を聞くからは 御身を父の敵なりと 恨みしは妾が誤り 又二つには御身が預かる菊水の宝剣手に入れて 弟正行(まさつら)に得させんと 願ひし事も空頼み

故郷へ帰る雁金の 一羽残りて恥しや 身は片よりの苧環に 繰りて返らぬ朽ち糸の 乱れて絶ゆる玉の緒と かねて覚悟の上なれば 岩屋の内か淵の底 せめて亡骸隠し置き 恥を包むが身の言訳

千「お暇申す大森殿 心の覚悟 死出の旅 力泣くなく立ちたまふ 御有様の痛はしさ 盛長暫しと押止め
大「アイヤ待たれよ千早姫 御身の孝心義烈に感じ 菊水の宝剣お譲り申そう 千「エエ 
大「楠家の息女千早姫に 此菊水の宝剣を譲らばこそ悪(あし)からめ ムゥ幸い成るかな鬼女の面⑫ 楠判官正成殿 怨霊現じて悪鬼となり 此の盛長を悩まして 宝剣奪い去たりと 世間に披露致されよと

剣を取って差し出せば 姫は嬉しさ遣る方なく落ち散る面再びかけ 宝剣取ってスックと立ち のう我こそは楠判官正成が怨霊なり 今ぞ朝敵⑬調伏⑭の剣を奪ひ立去らんと ハッタと睨みし鬼女の形相 物凄くこそ見へにけれ

大「さてこそ汝は楠の怨霊なりしか やわか宝剣渡そうや 
千「何を

又むらだちし雨雲に 争ふ姿も月落ちて 暁(あかつき)⑮近き明星の煌く光に ちらちらちら 見えつ隠れつ悪鬼の姿 見失いてぞ失せにける



解説


①北朝(足利尊氏)と南朝(後醍醐天皇)に分かれて争っていた頃、北朝は建武の年号を使い続けていた。

②太平記より。

③雲が群がり立つこと。

④賤しい装いの娘。

⑤北斗七星

⑥参考:仏教

⑦世にも稀なこと。

⑧いずれも兵法の中にある身の軽さを表す形容詞。

⑨月の満ち欠けの一つ。

⑩侍大将の着る鎧。

⑪参考:仏教

⑫般若の面(おもて)の事。

⑬天子に刃向う者。

⑭剣の威徳で敵を降伏させること。

⑮明け方。