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「白糸・下」

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あらすじ

<上>
武士「鈴木主水(もんど)」は鎌倉直参の侍でありながら新宿橋本屋の「白糸(しらいと)」と懇(ねんご)ろのため勤めもせずに放蕩三昧だった。貞淑な女房お安(やそ)は思い悩んだのち男装して橋本屋に客として赴き、白糸に直訴して全てを打ち明け夫の改心を懇願する。

<下>
女房お安の優しい心根を知らぬ主水は橋本屋の二階に現れ、白糸の元に来る客に嫉妬心を覚えて部屋に踏み入り白糸を連れて行こうとするが、客だと思っていた女房に説教されて、やがては後悔して連れ戻される件。

詞章


<下>
実と誠が行き合いの 梯子に足も引け過ぎの 濡れに寄るてふ貸し浴衣 着つつ馴れにし廊下口

主「あゝ 漸うの思ひで湯に入り 心持もよくなったが 兎角成らぬが此の二階 堰(せ)かれて上がれぬ今の身の上 なほ上がりたいと言ふも因果①な事 それは然うと 今宵お糸が所へ上がった客は 他の女郎に聞いても頭巾を被って顔を見せぬが 此の頃お糸が素振りと云ひおのれ其の分で済もうと思うか

気も紫の胴抜②を あた腹立ちに手早に着なし 急立つ胸を押し鎮め

主「否々 荒立てては却って身の恥 座敷へ入って其の客を屏風越しに オオさうぢゃ

と身を潜め間毎間毎の燈火(ともしび)も いと深々と鐡棒(かなぼう)の 鈴蟲引きし後や先 手鍋提げうと口では言へど 実は乗りたや玉の興(こし) とどめく鯔背(いなせ)③の頬被り 唄う声さへ風の伝(つて) 隣座敷の三味線は 何処の間夫④めと忍び駒

主「其れやこそ己(おれ)が推量の通り 両人(ふたり)めそめそ泣いて居るが あの塩梅では此の頃の事ぢゃ無い 疾(と)うから馴染みに為って居たと見える こんな事とも知らずして 可哀想に女房の 意見も上の空おやと 堪忍してくれ 堪忍してくれやい

余所で解く帯知らずして 絎(く)ける糸より細き縁

主「あゝもう今日と云ふ今日思ひ當ったわ 此のような様に為るも みんなあの腐れ女郎に騙されたばっかり エエ 口惜しいわい

つひ切れ易く綻びて

主「己(おれ)が心も知らずして 面白さうに弾き居るわ 何は兎もあれ此処へ引出し ずたずたに イヤイヤ 大小⑤は此処に無し エエどうしてくれう

胸に据ゑ兼ね隔ての障子 砕くるばかりに押し開けて

主「コレお糸 一寸(ちょっと)来い イヤサ 汝(われ)には言ふ事がある

無理に曳き出し髻髪(たぶさがみ)⑥ 取らんとするを隔つるお安(やそ) 然は知らずして急き立つ主水(もんど)

主「申し御免なされ 私はあの女に一寸話がござりまして参りました 手間は取らせませぬ 一寸の間お貸しなされて下さりませ

引っ捕らへんと立寄るを 遣らじと支ゆる女房が 頭巾を脱げば

主「ヤァ 汝(われ)や女房
安「旦那様 主水殿 チェ お前様はなァ 私が言へば悋気(りんき)⑦らしう思(おぼ)し召しもござんせうと 白糸殿に頼み意見して下されと 頼みに来たもお家が大事 また二つには娘のお徳 お前様が明日(あすがひ)お暇と為る時は

何を便(たつき)に暮らさうぞ 辨(わきまへ)の無い子心にも 私が顔が痩せたのを見て 余所ながらお父様へ御意見申しお勤めと ませた執り成し可愛さは

安「モシ 私ばかりの子ぢゃ無いに

親父(おや)らしい事も無く 無得心(むどくしん)⑧は何故ぞ 如何なる天魔がエエ魅(みひ)りしか それに就けても白糸殿

安「斯うした勤めの身の上⑨で 驚き入った心の操 それに引替へお前の行跡 緋鹿(ひが)の子⑩の扱帯(しごき)⑪は何事ぞ 否(いいえ)ァィなぁ 此の髪(ぐし)の結ひ様 是が鎌倉御直参の風俗でござんすかモシ

十九や二十ぢゃ有るまいし 情け無いお心やと 真実心の強意見(こはいけん) 白糸涙押し拭ひ

白「此の年月 御新造さま⑫の御苦労を 余所に見なして聴き入れず 二言目には今の様に 譯(わけ)も聞かずに撃ち打擲(ちゃうちゃく)⑬ 此処に御座んしたが彼方なりやこそ可かれ 余所の侍衆なら座敷へ入る不法者と咎められたら何とさしゃんす エエ さうした邪険なお前でも

堰(せ)かれて後は身を狭う 人目忍ぶが味気無く ありとあらゆる虚言(うそ)言うて 客に無心も誰故ぞ 皆お前に入り上げて 部屋着と共に身を投掛け 身悶えするこそ道理なり おやそは軈(やが)て金子(きんす)⑭の包み取り出して 前に置き

安「此の金にて何かと諸拂(しょはらひ)肩身を廣(ひろ)う還らしゃんせ
主「誤った 誤った お糸 其方の親切おやそが心配 今と云ふ今 骨身に染みて何と言はう 言葉も無い 今までと違うて其方衆が 相談づくで己(おれ)が体を思うてくれる物 なに悪く思ふものか 了簡してくれ両人(ふたり)の者

心直きは折れ易く 真実見えてたのもしき

安「そんなら明日は出勤を届けに出て下さんすかえ
主「其れぢゃと云ふて勤め道具も何もかも
安「ハテ 其の心當(こころあて)が無うて 何のお前に勤めてくれと言ひませうかいな
白「何事もおやそ様と話し合うてあるほどに今宵はどうぞ
主「是非還れと言ふのか 途(みち)が不用心だのに
白「そんな臆病な御武家様が有るものかいなあ
安「サァ 其の侍が嫌いなゆゑ
主「女房に謝ってばかり居る奴さ サァ行こう

と立上れば かねて覚悟の白糸が 主水の傍に寄添ひて

白「必ず共にお近い内に
主「誰が来るものか 此の新宿の二階も見納め
白「そんなら是が 永い別れに
主「ヤァ
白「御新造様
安「お糸殿
主「ドリャ還らう

と名残は鴛鴦(をし)⑮の別れ路や 衾(ふすま)を分けて共涙 堰(せき)止め兼ねる女気の 真実(まこと)の心は女房の 其の言の葉や白糸が 胸に満ち来る濁水(にごりみづ) 果し涙の憂き思ひ 心残して出でて行く

解説


<下>
①参考:仏教

②和服の下着などで、襟・袖口・振り・裾などに上等の生地をつけ胴の部分を別布にする仕立て方。その衣服。

③粋で勇み肌でさっぱりしているさま。その容姿やそういう気風の若者。

④参考:遊郭

⑤大小の刀。座敷へは持ち込めなかった。

⑥髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。もとどり。

⑦参考:遊郭

⑧道理や人情にそむくこと。非道。不人情。

⑨白糸が遊女をしている事。

⑩絞り染めの一種。

⑪しごいて締めるところから名付けられた。女物の小袖の丈が長くなるにつれ腰の部分をたくしあげて歩きやすいように固定するために用いられ抱帯(かかえおび)ともいった。腰紐。

⑫武家や富裕な町家の妻女。特に若妻をいう語。

⑬打ちたたくこと。なぐること。

⑭お金。

⑮おしどり。仲睦まじい夫婦のたとえ。