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「八犬伝:富山の段」

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あらすじ

上:富山の段
南總里見八犬傳(なんそうさとみはっけんでん)は江戸時代後期に曲亭馬琴による全98巻・106冊の大長編伝奇小説の古典の一つである。

隣領館山の安西景連が攻めて来て落城を目前にした南総の「里見義実(さとみよしざね)」は、飼犬の「八房(やつふさ)」に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫(ふせひめ)を与える」と戯れを言う。景連の首を持参して戻って来た八房は他の褒美に目もくれず義実にあくまでも約束の履行を求めた。

伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き八房を伴って富山(とやま)に入り読経の日々を過ごし(八房に肉体の交わりを許さなかった)翌年、伏姫は山中で出会った仙童から八房が悪霊玉梓(逆臣山下定包の妻)の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる-。

下:
八房を狩ろうと富山に入った里見義実と許嫁で忠臣の「金碗大輔(かなまりはちろう)」は誤って伏姫を撃ってしまう。致命傷ではなかったが懐妊を恥じた伏姫は二人の前で割腹し胎内に犬の子がないことを証明した。

伏姫が里見家の忠臣に生まれ変わる事を信じ数珠を押し揉み声高く祈ると、台地が蠢き数珠が空中に飛び散り、仁義礼智忠信孝悌と八文字が記された八つの大玉が飛散する。

大輔は僧体となり『犬』という字を崩し「丶大(ちゅだい)」と名乗り八方に散った玉を求める旅に出るのだった-。

上田秋成の『雨月物語』等と並び称される江戸時代の戯作文芸の代表作であり日本の古典長編伝奇小説の一つである南總里見八犬傳の、壮大な物語の冒頭部分を常磐津の見事な曲節に残し語り継がれたのが今作である。

詞章


濁世煩悩色欲戎界(ぢょくせぼんなうしきよくかい)① 誰が五塵(ごじん)②の火宅②を逃れん 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きなれ③ 然(さ)らぬだに 秋は淋しきものなるに 人跡絶えし富山の奥 麓を埋む落ち葉には 盛者必衰の理③を示し 谺(こだま)に響く瀧津瀬(たきつせ)④と 山又山の松風を 寝覚めの友と身一つに 悟り澄まして里見伏姫 苔の莚(むしろ)に座を占めて 唱ふる経の鶯の

伏「春さり来れば八重霞 花は遠目に見ゆれども 雲には近き山櫻(やまざくら)

彌生(やよひ)は里の雛遊び 女夫(めをと)雙居(ならゐ)て今朝ぞ摘む 名も懐かしき母子草 誰が搗(つ)き初めし三箇(みっか)の日⑤の 餅に有らぬ菱型の 腰掛け石も肌触れて 稍(やや)暖かき苔衣 脱ぎかへねども夏の夜の 袂涼しき谷風に 梳(くしけづ)らして⑥夕立の

雨に洗うて乾す髪の 蓬(おどろ)が下に鳴く蟲の 秋としなれば色々に 岩間の紅葉織り映えし 錦の床も仮初の 宿と知らでや鹿ぞ鳴く 水澤(みさは)の時雨(しぐれ)晴間無き 果ては其処とも白雪の

肌に破れたる振袖を 掲げて窟(むろ)を立出で給ひ

伏「棄恩入無報恩者(きおんにふむゐはうおんしゃ)⑦と御佛は説かせ給ふ 恩愛別離(おんないべつり)⑧の悲しみも 皆父上の御為なるに 懐かしと思ひ奉るは 罪深き事ぞかし 三世⑨の諸佛許させ給へ いざや花を奉らん オォさうぢゃ

手許(てもと)優しく閼迦(あか)手桶 御法(みのり)も菊の露雫(つゆしづく) 流れの音も山彦の 其れか有らぬか風ならで 遥かに聞こゆる笛の音に 伏姫耳を傾け給ひ

伏「思ひ寄らざる彼の笛の音 妾(わらは)が山へ入りしより 昨日までも今日までも 狩りする男 薪樵(たきぎこ)る 賤(しづ)も通はぬ此の深山路 珍しい彼の音色 草刈童の迷ひ入りしか ただしは狐狸(こり)か山鬼(やまずみ)か 障気(しゃうけ)をなして自分(みづから)が 道心を挫かん為か 何にもせよ 意(こころ)ならざる戯事(すさみ)ぢゃなァ

と見遣り給へば 向うより まだ振分けの蓬髪(おどろがみ)⑪ 歳は漸う六つ七つ 七巡りして坂道を 牛に揺られて来たりけり 姫君暫しと呼び止め

伏「ノゥノゥ童 人も通はぬ此の深山へ登りしは 心得ず其方は何れの里の子ぞ 聞かまほしやと宣(のたま)へば

童「オォ 私(わし)は牛馬の為に草刈る者では無い お師匠様に使はるる者 今日此の山へ薬を採りに登りました
伏「ムム 薬草(くすり)を採りにと言やるからは 其方の師匠はお医者よな シテ其の住居は
童「オォ 此の山の麓に住み 又或る時は洲崎に在り 常には人の病を治(ぢ)し 又或る時は蓍(めとぎ)を採り 人の吉凶禍福を占ひ 或は雨乞ひ日和の加持⑫ 天地(あまつち)の間に在る 有と有らゆる事 知らざる事は在(ましま)さず と最賢(いとさか)しげに語りける

伏「ム そんなら其方も 病の道は聞きつらん 自らは先頃より 夜に日に増して胸苦しく 次第次第に身の重きは如何なる病ぞ

治する薬も有るならば 教へて給(たも)と宣(のたま)へば

童「オォ 其れこそは悪阻(つはり)の證(しるし) また

眼の下に青潤(せいじゅん)とて 青き色の見えたるは 胎内に子を孕み 産月(うみづき)も接近(ちか)づきし と言ふに伏姫打ち笑ひ

伏「オォ あの子とした事が さすがは歳の行かざる證 譯(わけ)を話し聞かすべし 此方へ来よと招きたまへば 嬉しげに牛の背より飛び降りて 御傍近く歩み来る 伏姫君は閼迦桶の 菊を一枝手に取り給ひ

伏「コレ 此の花 欲しうは無いかや
童「オォ 下されや

と縺れ懸るも愛らしく 右与左と戯れて 興(あた)へ給へば手に取って

童「是 御覧ぜよ 此の花誰が育てねど 秋ごとに咲くも雨露の 恵みを受けし千代見草⑬ 年齢(よわひ)草とも様々に 異名も多き黄金草 容姿(すがた)やさしき少女草(をとめぐさ) いさ白菊の御身にも 子を宿さぬとは言ひ難し と問へば姫君微笑みて

伏「否とよ其れは僻事(ひがごと)よ 夫(つま)とても無き獨り身に 児(やや)を産むべき様は無し
童「夫無しとは言ひ難し 親の許せし八房の犬は 即ち夫なりと言ふに

姫君姿を改めて

伏「其方は其の初めを知って 其の後を知らぬなり 御経(みきゃう)の功力⑭にて幸いに 我が身は清し潔し 神こそ知らせ給ひなん

と言へば童子は打ち笑ひ

童「姫君こそ一を知って二を知らぬ と云ふ者なり 交わらぬとて孕まんや 鶴は千歳にして交らず 相見て孕み子を産めり

昔 唐土楚王⑮の妃(きさき) 常に鐵(てつ)の柱を抱く 終に鐵(くろがね)の丸塊(まるかせ)を産めり

童「即ち干将莫耶(かんしゃうばくや)の剣⑰ 是なり確かな事を語るべし お前は当国里見の息女 悪霊附きし八房に 魅(みい)れられしも定まる因果⑰ 身は汚さねど恋慕う 一念凝って胎内に 自然と宿る子は八生児(やつご) されど身に添ふ水晶の 数珠の威徳⑰と法華経⑰の 功力に依って末遂に 里見の家の忠臣と 生まれかはるも方便力 構えて疑ひ給ふなよ さらばやさらばと牛の背に 乗るよと見えしが霧霞

コレのゥ待ってと伏姫が 縋るとすれば朦朧と 姿は失せて忽ちに 掻き消す如く成りにけり ハッとばかりに伏姫は 泣き崩(くづ)折れて居たりしが 漸うに顔を上げ

伏「さては年頃 信心なす 洲崎の行者の仮そめに 童子と現れ伏姫に 因果⑰を諭し告げ給ふか 然(さ)はさりながら無情(なさけな)や 我が身を慕ふ八房が 其の執心の身に宿り 懐胎せしか浅ましや 取りも直さず畜生道⑰ ノウ忌まわしや 是は何とせん どうせうと ワッとばかりにどうと伏し流涕(りうてい)焦がれ泣き給ふ 漸うに涙を拭ひ

伏「アァ嘆くまい恨むまい とても畜生三界の胤(たね)を宿せし此の身の業 もしも月満ち犬の児を 産まば此の身の恥の恥 女ながらも義實(よしざね)が娘 憎しと思ふ八房を 護身(まも)り刀に刺し殺し 自らとても谷川の 水の泡とも消え果ん 今日を限りの露の身も せめて未来は仏果の種⑲ オォさうぢゃ

法(のり)の手向けの閼迦の水 汲まんと岸に静々と 立ち寄り給ふに水の面(おも) 見れば不思議や我が面影 映るは正しく犬の顔 もし八房が来たりしかと 見れども影も浪の音 念珠⑲頂き差し写す 顔は変わらぬ我が面影

伏「ハテ不思議や 初めの姿は犬の形 今また念珠を斯の如く 翳(かざ)して写せば我が面影 心の迷いか空目⑳かと 合点行かねば数珠押し隠し 写せば又も恐ろしき 犬の姿に

伏「アレ

慄(ぞっ)として 数珠を翳せば我が面影 隠せば犬の顔貌(かほかたち) ワッとばかりに声立てて 狂気の如く立つ居つ 彼方へうろうろ此方へ倒れ 前後正体泣き崩折れ 文目(あやめ)も分かず嘆きしが

果てし無ければ泣く泣くも 登る山路は剣にて 削る思ひに漸うと 巌屋(いはや)の内の苔莚(こけむしろ) 木の葉の上に座を占めて 涙にいとど露深き 今は此の世の秋の霜 消ゆる間近き玉の緒と 心細くも念珠あり いとど哀れを添へんとや 妻恋ふ鹿の声澄みて 谺(こだま)に響く山彦の 風物凄く更け渡る

解説


①濁世=政治や道徳の乱れた世。煩悩=参考:仏教。色欲=通常は性的な色情と物欲だが、仏語では感覚的な欲望を言う。

②参考:仏教

③平家物語より。

④滝。滝のような急流。

⑤正月三元日。

⑥髪の毛を櫛でとかすこと。

⑦僧侶が出家するとき俗世間を捨てて仏弟子になる心を表明するために髪を剃り円頂になること。

⑧恩愛=夫婦・肉親間の愛情。また、それに対する執着。

⑨仏教でいう過去世・現在 世・未来世のこと。

⑩功徳,功徳水または水と訳す。神仏や貴人などに捧げる水を意味する。

⑪蓬(よもぎ)のようにぼうぼうに伸びた髪。

⑫参考:仏教

⑬菊の別名。松の別名。

⑭参考:仏教

⑮中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した王国。

⑯中国の呉の刀工干将が呉王の命で剣を作るとき、妻莫耶の髪を炉の中に入れて初めて会心の作を得た。その二振りの剣の内の陽を「干将」、陰を「莫耶」と名づけたという名剣のこと。

⑰参考:仏教

⑱涙を流すこと。また、激しく泣くこと。

⑲参考:仏教

⑳実際にはないものが見えたような気がすること。