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十世小文字太夫は、六世尾上菊五郎により設立された「日本俳優学校(昭和5年設立)」で常磐津以外の芸事を学び研鑽を重ね、二世花柳壽楽など伝統芸能各方面の若者と親交を深める。

昭和14年(1939)
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しかし、第二次世界大戦が勃発。遂に赤札によって召集されてしまう。

昭和20年(1945)
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終戦。十世小文字太夫は無事に帰還を果たす。

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常磐津次期家元としての責務が双肩にのしかかる。

11-10,早稲田大常磐津研究会、第1期卒業式送別会、神楽坂料亭にて.jpg

当時の早稲田大学第1期常磐津研究会の卒業式記念撮影。大隅会館にて。

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十世小文字太夫主催の常磐津勉強会。

昭和22年(1947)

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十世小文字太夫に長男(のちの九代目文字太夫)が誕生する。妻一子と長男薫。

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昭和23年(1948)
3‐6bS23年3月1日政太夫追善。三越ホールにて。.jpg

3月1日、七世文字太夫兄である政太夫の追善演奏会。日本橋三越ホールにて。

昭和24年(1949)
3‐6c昭和24年12月1日、後援者の社長と大阪駅にて。.jpg

息子の無事を確認し、孫の誕生を見届けた七世文字太夫。後嗣の問題も片付き、安堵の為か表情に疲れが見える。大阪駅にて後援者と。

昭和26年(1951)
3‐6dS26年5月4日歿。享年55歳。.jpg

七世文字太夫歿。第一期常磐津協会初代会長、関西常磐津協会初代理事長として東奔西走し流儀を広め、戦後は速やかに流派を立て直した。因は熱海の別荘で腸ねん転をこじらせたためだった。

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喪主を務める妻志津と、長男十世小文字太夫。

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葬儀に別れを悲しむ門弟達と。終戦直後、「家元の家だけは、いの一番に立て直そう」と、日本橋檜物町の焼け野原にいち早く再興出来たのも、彼らの強い結束力のおかげだった。右側に、初世中村吉右衛門、七世坂東三津五郎からの献花が見える。

3-9s28年、十六世家元襲名披露。式三番、歌舞伎座。.jpg

同年、歌舞伎座に於いて十世小文字太夫が十六世家元として八世文字太夫を襲名。

昭和27年(1952)
3-8s27年6月15日山王祭.jpg

6月15日の日枝神社山王祭にて。そろいの法被を着た、八世文字太夫長男薫(左)と次男茂(右)。

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大太鼓には常磐津家元屋号「檜物町」の文字。

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やんちゃであった兄弟。

11-30、s27年、11月15日、753.jpg

七五三。

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常磐津の稽古は古式に依り6歳の6月6日から。三味線を弾く東蔵(右)。右から4人目が家元長男薫(のちの九代目文字太夫)。

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年に一度は常磐津流派で旅行に赴き、流内の親睦を深めるのが習わしだった。

昭和29年(1954)
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七世文字太夫三回忌法要。東西に散っていた一族が菩提寺である麻布祥雲寺に終結し先代を弔う。

昭和30年(1955)
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3-11s34演舞場にて小文太夫襲名。七世文字太夫七回忌。.jpg

11-29、s29年3月15日、三ツ面初舞台、薫7歳、茂4歳.jpg

新橋演舞場に於いて、八世文字太夫長男の薫(現・十七世家元九代目文字太夫)が「三ツ面子守」で初舞台。

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同上。「老松」。

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愛犬と戯れる長男薫(九代目文字太夫)。

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右から東蔵・須磨太夫・和佐太夫。八世文字太夫は弟子の育成にも力を入れ、また、門弟も家元を支えていた。

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稽古は厳しいが仲の良い家族。



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